vol.2プルースト効果:
香りが開く、記憶の世界
「香りが揺らす心の世界」
感性心理学で読む MAGMANIA AFTERCOLORS
みなさんは、20世紀西洋文学を代表する作家マルセル・プルーストの大作「失われた時を求めて」をご存知でしょうか。この作品は、プルースト自身が人生の真意に迫る、仏文学の中でも傑作とされる作品です。その中でも特に有名な一節が、「味」や「香り」が引き起こす特殊な心理作用を情景的に描いた場面。紅茶に浸したマドレーヌを口に運んだ瞬間に立ちあがる幸福感を描写した一節です。
小説の主人公である「私」は、ある冬の日、母から茶菓子のマドレーヌを勧められます。寒い冬の日に、あまり気分の優れない「私」ですが、少し紅茶に浸していた、そのマドレーヌを口に運んだ瞬間に、とてつもない快感と幸福感に襲われるのです。逃げることの出来ない、その衝撃的な感覚に困惑する「私」。今一体何が起こったのか。そして「私」は思い出します。紅茶に浸したマドレーヌを、日曜の朝、小さかった「私」に勧めてくれた叔母の存在、叔母の家や住んでいる場所、そして、その時間の幸福を。それは自動的に、まるで目で見たように鮮明な、「私」の中に立ち上がってくる記憶。まさに、「香り」という感覚が私たちの奥底に眠る記憶の蓋を外したようなこの経験を描写したこの一節は、「プルースト効果」として知られるようになるのです。
プルースト効果に関しては、これまでさまざまな研究が行われています。まず、小説にも描写があるように、嗅覚や味覚などの感覚刺激は、私たち自身の記憶の蓋を開けるような効果があります。そして香りは、特に記憶の中でも、ノスタルジア(郷愁)、つまり家族や大切な人、そして人生の節目となるような出来事の鮮明な記憶に深く関連しており、ポジティブでありながら、切なさを伴う感情を喚起することで知られています。ノスタルジアは、自尊心や幸福感を向上させ、自分自身の人生の意味、社会的なつながりを向上させる心理効果があると同時に、クリエイティビティやインスピレーションを促進させるような役割があることも明らかにされてきました(Green et al., 2023)。
脳の中でも、香りという刺激は独特に処理されます。匂いという刺激は、記憶を司る海馬や、感情を処理する扁桃体へ直接伝達されるため(Herz, 2016)、プルースト効果のように、記憶や感情へとダイレクトに語りかけてくるような経験が生まれるのですね。扁桃体の活性は、音や視覚刺激よりも嗅覚刺激の後に強くなることも示されているので(Royet et al., 2000)、香りから立ち上がる気分や感情の強度が強いことも納得です。
恐るべし香りの効果。科学的知見からも、香りの感性経験の独自性、そのインパクトの大きさは示されているようです。
JAN MIKUNI [三國 珠杏]
ウィーン大学 心理学部 ポストドクトラル・リサーチャー
オーストリア・ウィーン大学で「日常の感性経験」を研究する心理学者。
身近な空間やアート、日々の出来事に潜むデザインが、人の評価・感情・行動にどのような影響を及ぼすのか、その心理メカニズムを中心に探究している。
また、感性経験が心身の健康や社会的つながり、暮らしの豊かさに与える効果にも注目。感性の力を通して、現代社会の課題に寄り添う新たな視点と知見を提示することを目指し、研究を重ねている。
https://jan-mikuni.com/
引用文献
Green, J. D., Reid, C. A., Kneuer, M. A., & Hedgebeth, M. V. (2023). The proust effect: Scents, food, and nostalgia. Current opinion in psychology, 50, 101562. https://doi.org/10.1016/j.copsyc.2023.101562
Herz, R. S. (2016). The role of odor-evoked memory in psychological and physiological health. Brain sciences, 6(3), 22. https://doi.org/10.3390/brainsci6030022
Royet, J. P., Zald, D., Versace, R., Costes, N., Lavenne, F., Koenig, O., & Gervais, R. (2000). Emotional responses to pleasant and unpleasant olfactory, visual, and auditory stimuli: a positron emission tomography study. Journal of Neuroscience, 20(20), 7752-7759. https://doi.org/10.1523/JNEUROSCI.20-20-07752.2000